じょうてつのあゆみ 第2回

開業まで

結局線路は、国鉄白石駅から札幌方向に進み、豊平停車場、真駒内種畜場の東側をとおり真駒内川を渡り、小ずい道を過ぎて下り、石山停車場の手前で馬車鉄道と平面交差し、簾舞停車場を経て、豊平川右岸を定山渓に至る延長29.9キロメートルとなった。
大正6年4月6日に施行認可を受け、計画より四年経過した大正6年4月6日より建設工事がはじめられが、定山渓沿線は藤の沢あたりまでは開けていたが、その前途には、繁り放題の樹木、根をはりつめた熊笹が無限に広がっていた。さらに、会社の財政事情よりレールや車輌類のほとんどを国鉄から中古品を払い下げてもらい、どうにか完成し大正7年10月17日に白石から定山渓までの鉄道営業を開始する運びとなった。
その当時の資金難はかなり深刻であり、開業直前の大正7年1月30日には金子元三郎氏(多額納税者・貴族院議員)が社長に就任し、松田学氏は専務となった。

開業~のろのろ走る~

開業当時の車輌は、蒸気機関車2両(1100形、Cタンク機関車)、客車4両(木製2軸、26人乗り)、貨車13両(木製2軸ボギー有ガイ緩急車3両、木製2軸無ガイ貨車手用制動機付10両)であり、レールは1mあたり22.5キログラムのものであった。
営業開始当時は、1日に3往復の運行であり、1112号という煙突の長い機関車は、豆機関車と呼ばれながら黒煙をもうもうと吐いて走っていた。地形が変化に富みすぎて曲線や勾配が強い路線となり、傾斜の少し急なところにさしかかると、何回も後退し惰性をつけて全力走行してようやくのぼりつめることがあったり、客車の前後に機関車をつけて走ったりもした。当時は駅の数も少なく、大小の雑木林や熊笹の生い茂った山峡を縫い、白石駅から定山渓駅の汽車賃は61銭で、1時間30分かけてノロノロと走り、駅間の途中でも乗客が手を上げればところかまわず乗せ、利用客は花見や紅葉を楽しみながら酒盛りをしていた。
鉄道の開通により、湯治場であった小さな集落が観光客を対象にしゃれた大きな建物の温泉旅館が立ち並ぶ観光名所となっていった。