じょうてつのあゆみ 第10回
時代~心機一転~
鉄道廃業を前後して、自動車事業の乗合バスは、札幌駅を起点に市内各地を結ぶ主要な通勤通学路線として進展するとともに、合理化並びに省人化を図り、ワンマンバス運行の導入、車両の大型化やワンマンバス車両への代替並びに改造を行っていた。貸切バスもレジャーブームに乗って順調な伸びを示し、ロマンスカーやハイグレード車を増車し、昭和43年11月には真駒内自動車営業所を開設した。
しかしながら、自家用車の激増、道路交通網の立ち遅れによる混雑のために利用客が減少し、都市人口の過密化による空洞化現象の非効率な運行等、バス事業の輸送環境は、年々加速的に斜陽化が進んでいた。
このような状況の中、地下鉄開業にともない昭和46年9月に札幌陸運局の諮問機関である札幌地方陸上交通審議会から「運行系統の整理及び利便増進の配慮と事業者間の路線調整への配慮」との答申が出されたこともあり、市内に広大な輸送分野をもつ札幌市に市内バス全路線を移譲することが最善策と考え、昭和46年12月7日札幌市長に市内路線及びバス車両並びに人員の移譲を申し入れ、鋭意調整を図った結果、昭和47年1月13日に確認書を交わすこととなった。同年2月24日に開催された臨時株主総会において、市内バス路線・車両の譲渡並びに従事員引継ぎについての決議決定がなされ、昭和47年5月1日に市内9路線、バス車両90両、運転士150名その他31名の合わせて181名の人員が札幌市に移譲された。これにより、バス事業は郊外の乗合バス路線と貸切バスにより再建を図り、不動産事業はさらに拡大を続け、新規事業の開発を進めることとし、昭和48年5月31日に商号を「定山渓鐡道株式会社」から「株式会社じょうてつ」へと変更した。
しかしながら、自家用車の激増、道路交通網の立ち遅れによる混雑のために利用客が減少し、都市人口の過密化による空洞化現象の非効率な運行等、バス事業の輸送環境は、年々加速的に斜陽化が進んでいた。
このような状況の中、地下鉄開業にともない昭和46年9月に札幌陸運局の諮問機関である札幌地方陸上交通審議会から「運行系統の整理及び利便増進の配慮と事業者間の路線調整への配慮」との答申が出されたこともあり、市内に広大な輸送分野をもつ札幌市に市内バス全路線を移譲することが最善策と考え、昭和46年12月7日札幌市長に市内路線及びバス車両並びに人員の移譲を申し入れ、鋭意調整を図った結果、昭和47年1月13日に確認書を交わすこととなった。同年2月24日に開催された臨時株主総会において、市内バス路線・車両の譲渡並びに従事員引継ぎについての決議決定がなされ、昭和47年5月1日に市内9路線、バス車両90両、運転士150名その他31名の合わせて181名の人員が札幌市に移譲された。これにより、バス事業は郊外の乗合バス路線と貸切バスにより再建を図り、不動産事業はさらに拡大を続け、新規事業の開発を進めることとし、昭和48年5月31日に商号を「定山渓鐡道株式会社」から「株式会社じょうてつ」へと変更した。