じょうてつのあゆみ 第4回

戦争時代(上)~貨物列車の運行開始~

昭和12年の日中戦争を契機として、日本鉱業株式会社の豊羽鉱山の操業が活発になり、鉱石の選鉱場が石切山に建設され、藤ノ沢から選鉱場までの間2.1キロメートルと、錦橋からオンコノ沢までの間6.2キロメートルを、鉱石の運搬専用鉄道により昭和14年4月17日から貨物列車の運輸を開始した。さらに、定山渓の御料林でも木材の量産が始められ、昭和15年には森林鉄道が完成し、定山渓から貯木場の間0.9キロメートルの貨物専用側線が敷設され、ここに定山渓鐡道の貨物輸送は大きな飛躍をとげた。
当時の旅客輸送をみると、苗穂と定山渓の間17往復と不定期便2往復(内1往復は豊平~定山渓)であり、東札幌と白石の間(未電化区間のため蒸気機関車による運行)には朝夕2回の混合列車が運転されていた。
 
蒸気機関車

戦争時代(中)~自動車運輸業の休止~

昭和16年2月1日、日中戦争の発展により燃料統制による企業整備のため、自動車運送業を休止した。また、昭和17年6月には電力統制が行なわれた結果、北海水力電気株式会社が解散し、同社保有の定山渓鉄道の株式は、王子製紙株式会社に肩代わりされ、同系の北海道鉄道株式会社が、昭和18年8月1日に国有鉄道に買収されたことにより、苗穂から東札幌間の直通運転は、国有鉄道に継承された。
豊羽鉱山の鉱石輸送が日増しに増加され、昭和17年7月に国有鉄道から9040型1Dテンダ機関車を購入、さらに同年10月には日本車両製C12型1C1過熱タンク機関車を購入して貨物輸送の充実が図られた。ところが、昭和19年9月、大出水による坑道の浸水災害が豊羽鉱山に発生したため、操業が停止し専用鉄道は休止となった。その反面、この頃から定山渓の奥の本滝鉱山において低品位ではあるが褐鉄鉱が産出され、定山渓から東室蘭への直通輸送が行なわれた。

戦争時代(下)~軍事輸送~

社員の中で、戦場に招集されていく者が増える中、電車や機関車の修理資材が次第に代用品となり、粗悪になっていくにつれ故障が続出し、修理は困難さを強めていった。そして、終戦を迎える頃には保有車輌の4割程度しか稼動できない状況であった。そんな中、輸送にも『重要指示』が増えていった。その一つは、昭和19年10月「千歳飛行場に重爆撃機が発着できるように滑走路を強化するため、砕石を敷き詰めることになり、硬石山から大型貨物で1日40両積み出すこと」であった。国有鉄道の大型貨車を使い、1日36両、二度に分けて東札幌まで輸送し、そこから国有鉄道の列車で千歳まで輸送した。それは終戦の時まで1日も休むことなく毎日続けられていた。
昭和20年3月には、ついに東札幌から白石の間2.77キロメートルの線路を戦時特例によって、産業設備営団に供出することとなり貨物輸送を廃止し、国有鉄道との連絡は、旧北海道鉄道の東札幌となった。かくして、昭和20年8月15日に終戦を迎えるとともに、鉄鉱石運搬も廃止された。