じょうてつのあゆみ 第1回
はじまり
定山渓温泉は、その昔"美泉定山"という山伏が発見したことから、その名が伝わっている。明治の初めごろ、定山渓は3軒の湯治場があり、農家や商店の散在する辺ぴな温泉集落であった。定山渓の途中にある石山から札幌軟石という石が掘り出され、その石を輸送するために明治42年に札幌石材馬車鉄道株式会社が作られ、札幌駅前から北5条通りを西へ進み、西11丁目通り(石山通り)を南進し石切山の北で豊平川を渡り、石山に至る延長12キロメートルの馬車鉄道が敷設された。定山渓への利用客もこの馬車鉄道に乗り、終点の石山で下車したあとは人馬をたよりに歩くしか方法がなかった。
やがて、札幌の発展と共に石切山から生産される石材をはじめ、豊平川流域の御料林から 伐出される木材、久原鉱業会社の豊羽鉱山から産出される硫化鉄鉱石、さらに豊平川水系に 開発される水力発電所建設用資材の輸送と、定山渓温泉への行楽客の輸送を目的として、大正2年2月12日松田学氏を中心に札幌区在住の経財界人24名により、札幌区苗穂から豊平町字定山渓まで29キロメートルの軽便鉄道敷設の免許申請が提出され、大正2年7月16日に免許状が下付された。
かくして大正4年12月20日資本金30万円をもって客貨輸送と鉄道ホテルの経営を目的とし定山渓鐡道株式会社が創立され、初代社長に松田学氏が就任した。
やがて、札幌の発展と共に石切山から生産される石材をはじめ、豊平川流域の御料林から 伐出される木材、久原鉱業会社の豊羽鉱山から産出される硫化鉄鉱石、さらに豊平川水系に 開発される水力発電所建設用資材の輸送と、定山渓温泉への行楽客の輸送を目的として、大正2年2月12日松田学氏を中心に札幌区在住の経財界人24名により、札幌区苗穂から豊平町字定山渓まで29キロメートルの軽便鉄道敷設の免許申請が提出され、大正2年7月16日に免許状が下付された。
かくして大正4年12月20日資本金30万円をもって客貨輸送と鉄道ホテルの経営を目的とし定山渓鐡道株式会社が創立され、初代社長に松田学氏が就任した。
開業まで
当初の計画では、国鉄苗穂駅から豊平川左岸沿いに南進、石山付近で川を渡り、定山渓に至るものであったが、大正2年8月の大出水により河岸に大決潰を生じ、北海道庁が護岸の工事を施したため、予定個所に線路を敷設することができなくなり、さらに多額の建設費用が必要となるため、国鉄との接続点を白石駅に変更する願書を会社設立後間もない大正4年12月27日に提出し、翌大正5年4月13日に改めて認可を受けた。
変更した線路は、国鉄白石駅から月寒坂下を通り、真駒内を経て石山から定山渓へ至る計画であるが、月寒坂では地主との折衝が難航し豊平に変更、さらに平岸では通過地点の反対で手直し、真駒内では、北海道庁立真駒内種畜場構内の耕作地・草地・家畜運動場の中央を 横断することは、好ましくないと線路の敷設を反対され、線路を山側に迂回変更することになった。
変更した線路は、国鉄白石駅から月寒坂下を通り、真駒内を経て石山から定山渓へ至る計画であるが、月寒坂では地主との折衝が難航し豊平に変更、さらに平岸では通過地点の反対で手直し、真駒内では、北海道庁立真駒内種畜場構内の耕作地・草地・家畜運動場の中央を 横断することは、好ましくないと線路の敷設を反対され、線路を山側に迂回変更することになった。