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■黄金期〜東急傘下へ〜
 会社は創業以来の黄金時代を迎え、昭和32年にかつてない設備投資をした。昭和32年4月12日に中央運転室側扉付凸形の車体がブルーに塗られ、台枠回りが白線で飾られた貨物用B−B液体式ディーゼル機関車(DD4501)が竣工し、豊羽鉱山専用鐡道のオンコノ沢と選鉱場間の専用貨物列車に使用され、時には団体用臨時列車の補機を務めることもあった。また同時に、箱形で前面2枚窓のB+B直流電気機関車ED500形2両が、ブルーの車体に2本の白線を施しスマートな姿で入線した。さらに7月25日には、両運転台の前面傾斜付固定窓2個で、座席が横手になっている鋼製2軸ボギー液体式ディーゼル動車キハ7000形がマルーン色に白線一帯をあしらい入線した。
 そして、開業当時からの念願であった札幌駅までの乗り入れが、昭和32年8月12日から開始され、観光地及び沿線産業に対する交通機関としての体制が整えられた。


 豊平駅より東札幌を経由し札幌駅までの乗り入れにともない、この区間は単独運転もあったものの、通常札幌駅と東札幌の間は国有鉄道列車に併結、東札幌から豊平駅までは自動、その後定山渓までは電車でけん引する方法であった。
 しかしながら、動力近代化を図り過大な投資を行ったことは、経営面において財政の硬直化が見られ、その転換方法を考えていたところに、北海道進出を計画していた東急資本とうまく結び付くことができ、昭和32年10月東急の傘下に入った。この時、東京急行電鉄(株)は定山渓鐡道の株式89万4,428株(全体の45%)を取得し、筆頭株主となっていた。
 昭和32年10月7日に開催された臨時株主総会において、五島昇(東京急行電鉄 取締役社長)、船石吉平(東京急行電鉄 取締役)黒川徹(群馬バス 取締役)小佐野賢治(東京急行電鉄 取締役)の各氏が取締役に選任され、船石吉平氏が副社長に、黒川徹氏が常務に就任し経営にあたった。また、昭和33年5月21日開催の定時株主総会において蝦名忠雄氏(東京急行電鉄 取締役)が社長に就任した。

■沿線開発〜宅地開発〜
 その後、不動産事業への進出も考えられ、その一端として昭和32年10月に北茨木が澄川駅と改称された。
 昭和33年4月1日に直営の不動産事業を開始し、沿線開発の促進計画のもと藤ノ沢を中心として443.053坪の土地を買収し、年度内に6,263坪の分譲地を売り出した。また、商社及び学校用地として藤ノ沢地区に12.219坪、澄川地区に6.293坪を一括分譲した。
 また、利用客の利便性を図り、昭和34年4月1日に滋恵学園停留場、同年6月21日に十五島公園停留場、昭和36年4月15日には緑ヶ丘停留場が開設され、廃線までの18ヵ所全ての駅がそろったことになる。
 東急の傘下に入ったことにより、昭和33年10月には東京急行電鉄よりデハ3600形半鋼製2軸ボギー電動客車等3両を譲り受けた。このころの旅客列車の運転は、札幌と定山渓間のディーゼル動車電車併結10往復、東札幌と定山渓間の電車2往復、豊平と定山渓間の電車11往復となっていた。


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