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■時代〜時の流れ〜(上)
 鉄道黄金時代に暗いかげりが出始めた。それは、鉄道路線と併行して走る国道230号線の改良工事の進展であった。冬期間の除雪体制も整い、トラックの重要性が見直されてきたのである。まず木材輸送がトラックに奪われていった。貨車の場合、大量輸送が可能であるが、駅の土場まで運び入れ貨車への積み込み、到着駅から木工場までは小運搬しなければならず、時間と費用が非常にかかるのである。函館など長距離には貨車が便利であるが、札幌市内や小樽など近場はトラック輸送が重宝された。また、定山渓温泉や沿線商店への物資輸送も、戸口から戸口へのトラック輸送が有利な条件を生かし、大幅に受け持つこととなった。
 さらに、豊羽鉱山の鉱石輸送がトラック輸送へと切り替えられ、昭和38年9月21日をもって専用鉄道を廃止することとなった。この時の貨物輸送は豊平駅に到着する石炭と製材のみとなった。


 国道及び周辺道路の整備や自家用車の増加、さらに温泉旅館は客引きのためのマイクロバスを備えて独自で輸送をし、観光客は直接団体バスへ乗り込むなど、鉄道は沿線に誘致した慈恵学園や藤の沢女子校などの通学生の輸送が主となり一般旅客は激減していった。

■時代〜時の流れ〜(下)
 戦後再開したバス事業はどんどん伸びていった反面、電車事業は衰退の一途をたどっていった。
 このような状況の中、昭和41年10月に北海道道警察本部より、東札幌と定山渓の間にある66ヵ所の踏み切りの内、20ヵ所以上が主要路線と平面交差し、事故の危険性が高いため、立体化か撤廃かを求める勧告を受けていた。
 また、昭和47年2月に冬期オリンピック競技が札幌で開催されることになり、会場、選手村にあたる真駒内を中心とした、交通機関の整備の検討が始められていた。それは、都心部の交通体系の改革も含めた札幌市高速軌道建設計画であり、第一陣として南北線、北24条から真駒内を結ぶ路線が策定された。この区間の内、平岸と真駒内間は定鉄線上を走る計画であり、昭和42年12月に札幌市より同区間の鉄道用地買収の申し入れを受けた。
 この二つが定鉄電車の運命を決めることになった。地方鉄道の使命として沿線住民の足を考え、昭和44年3月20日に高速軌道の将来計画の終点、藤ノ沢までの線路敷きの一括譲渡で札幌市の買収交渉に応じることとなり、同年4月21日に開催された臨時株主総会に於いて鉄道事業の廃止が決定された。
 鉄道が廃止される直前の3日間は、先頭に「さようなら」と大きく書かれた花電車が走り、昭和44年10月31日を最後に、大正7年10月“豆機関車”が煙を上げてから51年を経過して、定山渓温泉と沿線の発展と歴史をともに築き上げてきた定鉄電車は、惜しまれながらも静かに幕を閉じた。



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